感性の哲学・桑子敏雄
日本辺境論・内田樹

最近偶然読んだこの二冊の本。適当に事務所の本棚から借りただけで全く脈絡はないのだけど、読んでみてはっとした。
大好きな先生とか、先輩方とか、友人とかと話を合わせようと必死で読んできたハイデガーなりメルロポンティなりバシュラールなり、どれも部分的にぐっときたりしてものの、どうしても最終的に腑に落ちなかった。でもわかんないっていうと置いてかれるのではないかと必死に納得顔をしてたけど、、、そういうことか!!私ってめっちゃくちゃ日本人なんだ!と。
例えば地下室とか屋根裏部屋とか、はっきりいって私、全く思い入れないし!や、なんかいいこといってるなーという憧れに近い気持ちは感じるんだけど。
実は海外の思想を理解できないのは翻訳のせいだと、ずっと思っていた私。たぶんそれもあるんだろうけど、海外の小説だと理解できるんだからな。
小説を読む時は日本の小説であっても海外のものでも、設定された都市や時代なんかに自分を連れて行って読むということを自然にやっているのだけど、思想的なこととなると生身の自分で受け止めようとするからうまくいかないんだ、と言うことに今更気付いた。


感性の哲学の方は、身体の配置と空間の履歴という言葉は喚起力があっていいなと思った(たぶんここから引用して塚本さんがよく使ってたから馴染みがある響きだったせいもある)。建築のことを考える時に、確かに使える言葉だとおもう。まさに身体の配置を定義し空間の履歴を更新するものが建築だと考えることもできるから。そう考えると一気に、ある敷地やある地域のなかにある使用者を想定した限定的ともいえる建築が、履歴という言葉によって時間軸的な広がりを手に入れ、身体という普遍的なものも取り扱えることになる。
もう一つ、やはり東洋思想について知りたいなーと思った。いつもなんとなく思っていたのだけど。特に八百万の神っていう考え方は日本人のメンタリティの根幹をなしてるよなっていうのが海外に少し住んだ時に実感したことなのだけど、感覚的な認識だけで知識が浅いままになってるな…
この本に出てくる引用は東洋のものが多くて、どれも結構すんなり理解できた。西洋思想を読む時の、文字的にはわかるけどどうも身体かできないあの幽体離脱したみたいな感じにはならず。
風景についての記述とかメインの感性についての部分の表現は好きになれなかったのだけど。


日本辺境論の方は、最後の日本語の構造についての部分は本当そうだよなーと思った。日本語の特徴や言語と思想の関係についてよく考えるのだけど、ほんとにちゃんと考えたら面白いことだよなと思う。漢字を見た目で感じるというのはほんとにそうだよなー。漢文読む時の、口に出して読めないけど全体を一望していいたいことはわかるあの感じって大好き。表意文字って身体と結びついている。大森荘蔵さんのことだま論やっぱり読みたいな。そしてこれも近々学びたいことだなー。
あと私には、私という一人称で口語体の文章は読みづらいということを再確認。なんかどうしても突っ込みをいれたくなってしまったり正面から受け止められないんだよなー。著者もそれを意識してあえて私+口語体を使っていたのだけど。


私の次知りたいことの尾っぽを見せてくれた本でした。

感性の哲学 (NHKブックス)

感性の哲学 (NHKブックス)

日本辺境論 (新潮新書)

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