スケッチ・オブ・フランク・O・ゲーリー

をみにいく。
シーンは巨大な工事現場から。
でっかい鉄骨を職人さんが溶接してる。


シーンはかわって、ゲーリー事務所。
ゲーリーが、はさみでちょきちょき模型をつくる。
「ここをもっと低く」
と言えば、直接模型をちょきっとカット。して上から紙をセロテープで固定。
その様はまさに“ライブ・模型作り”
工事現場のごつごつしたリアルな感じとは対極にある、さくっと軽い。


ゲーリーはプランと模型を行き来しながらスタディするらしい。
確かに、ゲーリーの建物、実はプランがしっかりしてるって印象を割とみんな持ってると思う。
私も、ヴィトラにいったときにそう思った。うわ、ちゃんと美術館だ!と。
要は、天井と屋根の芸術家なんだ、彼は。と思う。

作品としては、初期の牛小屋とかスケートリンクが意外と穏やかでよかった。
あと、やっぱりビルバオは成功したんだなー。とおもう。
遺跡みたいなスケールと存在感。かっこよかった。
ただ、ディズニーのホテルとか最近のやたら説明的なやつは面白くない。
ゲーリーの建築について、登場してくる人たちみんなが「みたことない」とか「美しい」とか「芸術的」とかそういう軸からしか評価できてないのが(チャールズ・ジェンクズでさえ)、予想通りで、つまんなかった。フィリップ・ジョンソンはちょっと違ったけど。
でも、ゲーリーの作品のうち説明的なやつは面白くないんだから、矛盾してんのか。私は。
自分とは全く違うスタンスの人、全く違う造形をする人として、なにか自分の知らない言語を期待していたのかもしれない。


一番面白かったのは、コメントを寄せていたミュージシャンの台詞。
「パーティーで建築家をみたらぶん殴れ!ってことばを俺は信じてる。退屈な街をつくったのは建築家なんだから」(この後、もちろん彼は、ゲーリーの建築がいかに退屈じゃないかについてはなす)
そうなのか。やっぱり、街をつくってるのは建築家か。と、素朴に、驚く。
そうすると「サーフィス(五十嵐太郎は“外観”と訳していた)」こそ、建築のできることだ、といってるゲーリーの言い分はよくわかる。建物の外観の集合が街をつくってるんだから。
もっと外観に意識的になってもいいのかもしれない。アピアランス研究家としては、同意。
建築の外観の形式を更新する試み
ってのが、ゲーリーのスタンスだったのかな。
形で答えるとこが、ゲーリーポストモダンの人なんだなってかんじ。
いまや、その外観がアイコン的に評価されて、商品になってる。


現代の技術によって実現できるようになった形をスケッチする建築家。現代において数少ない「巨匠」的建築家。商業的価値の高いアイコンを生み出す建築家。
フランク・O・ゲーリーという現象のおもしろさが、スケッチされてた。