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いつどこで生まれたかということ
いつ、どこで生まれたのか、ということを聞けばだいたいのその人の背景がわかる。
それってすごく大雑把なようで、その通りだなと思う。
人それぞれ個々の細かい差はあるにせよ、ある政治的文化的背景による身体の類型をみいだすことはできるはずだ。個人的な話だけれど、私はそういった大枠の共通性を捉える目線というのを大学時代論文を通じて学び、ものごころついた!と思った記憶がある。
ある晩旦那がこんなことを言っていた。
自分の周りの日本人には中国に対してかなりアグレッシブな意見を持っている人が多い。大気汚染の話なんて、本当に中国は迷惑だ、最低だといっている。でもその話を70代の知人にしたら、それは日本も通ってきた道だから、きっと中国もこれからこの失敗に学んで発展していくんだと思う、という寛容な意見だった。と。
私からすると汚染水を海にうっかり流す方がよっぽどどうにかしてると思うのだけど、その話はおいといて。
考えてみれば私たちのような20代、30代の人たちにとってこの大気汚染の問題は初めて自分たちの領域が他者に傷つけられる経験であり、福島原発の汚染水を海に流していることなんかは逆に初めて自分たちのいる国が他国を、世界を傷つけている事態なんじゃないかと思う。
それに対して70代の戦時中、戦後を生きてきた彼にとっては、経験したこと、もしくは当事者ではないにしろそういった時代にいたことで、疑似経験したことであった。
10年ごとに区切って世代論をされることにいつも違和感を感じる私だけど、ある大きな出来事を経験したということはその人たちにある共通の影響を与えると思う。
もちろんそれは時間の問題だけではなくて、場所の問題でもあるし、もしかしたら時間や場所を超えて経験による共通性がみられるかもしれないけど(例えば戦争を経験した、とか)
そもそも身体ってなんなのか。
物質としての身体はこれ!ってわかりやすいけれど、この考えている私も含めて身体を語ろうとするときその定義って人それぞれになる。私はなんとなく、物理的な身体の周りにほわほわと四次元的に漂う雲みたいなものをイメージする。なぜ四次元かというと経験という、時間と空間を含んだものがまとわりついてくるから。でもあくまで、中心にくるのは物理的身体なのだと思う。私たちは私たちの体を通してしか経験できないから。
そのほわほわとした雲のような身体が、一刻一刻形を変えながら、(もしかしたら音も出てるかもしれない)動いている。
それを受け止めるのが家なんだと思う。
あれ、なんで結局家の話になったのか?大きなテーマをたてすぎてどうせ書ききれないと思ってたけど、案の定。まあ、そんなもんか。
そんな中途半端さもうけとめられる場所をつくりたいなとおもう。
身体/生命、ほぼ日、ダイアモンドさんインタビューをよんでかんがえたことでした。
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