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なんで哲学者とか科学者とかって大概男性なのか。
なんでかって、男性は不安なのだ。言葉による思考が必要だった。
だから、ああだ!といったり、いやその逆だ!といってみたり、そもそもその枠組みがどうだ!といってみたりする。
子供を産んでみてわかったことの一つだけど、女性というのはそもそも自分を超えたリズムを身体の中に持っている。月の満ち欠けにあわせて血が出るんだもの。それってつまり身体と自然がオーバーラップしているような状態である。そして出産。って、めちゃくちゃ痛くて獣のようになるんだけど、そこで感じるのは、私の身体は何十億年前の誰か(動物、人間でなくてもよい)と同じなんだという強烈な実感。亀だって涙を流すのだから。ネアンデルタール人と何も変わらない出産という出来事。
こうやって四次元的に肉体からはみ出した身体を元々持っている女性というのは、そもそも自然の原理に疑問を持たなかった。それは自分の身体の延長だから。生も死も自分の身体の中にある。
それに対して男性にとって自然は得体の知れないものとして、対象化されたんじゃないか、と思う。自然界の矛盾を様々な方法で解明し説明しようとしているのが哲学であり数学であり科学全般なのだから、それを必死でやるのは男性が多いというのは当たり前のことなんだと思う。
そんなこといいつつ難しいことばっかり考えている私は多少分裂しているのかもしれないけど、でもやっぱり物事を対象化する能力は男性にはかなわないと思うことが多々あった。大雑把にしか物事をみれないのだ。それをなんとかごまかそうとしてきたけれど、そんなことしないで、物事の中に入り込んで大雑把に思考することをどうどうとやればいいんだと思った。
この本を読んで思ったんだけどないようには直接関係なし。吉本隆明読みたくて、対談集から入ってしまったのは失敗だった。対談ってもう知ってる人向けの話だもんね。。。
ただ、いろいろ考えてみたいトピックがちりばめられていたのはよかった。

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子育ては、一人でがんばってするものじゃないんじゃないか、といつも思う。がんばってやるもんではない。し、一人でやるもんでもない。
だからって、「地域で子育て」みたいなことは飛躍しすぎだ。
実感的に少なくとも私の住んでる東京の新宿区ではちょっと難しいかなと思う。新宿区は子育て支援は結構充実していると思うけど、でもあくまで支援。がんばってるお母さんの支援でしかない。
少し前なら祖父母世代だったり親戚一同が近所に住んでいたり同居していたりして、みんなで一緒に子育てしてたんだろう。
それより大分昔、人の寿命がそんなに長くなかった頃は祖父母なんてあんまりいなかったのかな?そのときはきっと近所の人たちと一緒に子育てしてたんだろうな。きっと家の機能を少しはみ出したような、かといって保育園みたいな施設ではない、公共的な場所と家的な場所の中間的な場所があって、そこで子供たちを一緒にみてたりしてたんじゃないかなと思う。
洗濯場みたいな存在感。
そう、子育てに限らず、洗濯だって食料調達(狩り/スーパーで買い物)だって今では一人でやることがかつては近所の人たちのまとまりでやることだった。
そう考えると、他人との距離感って今と全然違ったんじゃないかなと想像できる。自分の境界もちょっとちがったんじゃないかな?
いつも身体からすこーしはみだしたような身体像がしっくりくる。時にそのはみ出した部分が他の人のはみ出した部分と重なり、地面と重なり、木と重なるような。
なにか今の日本の社会って、子育てという点からみるとうまくいってない気がする。理想的な状態とみんなの認識が、制度が、身体がずれている。
どうしたらいいのか、あんまりわからないんだけど。
子育て家族のシェアハウスとかそんなことなのかな?でも子供できたら家買わなきゃみたいな社会じゃそんなこと実現できないのかな?
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美術に疎い私は、この「ピカソと並ぶ」とポスターに描かれた画家についてなんの前知識もなしに展覧会を見に行って、この画家の喚起力に唖然としたので、まずは他の人の言葉や意見を調べずに自分の言葉で感想をまとめたいと思う。
まず真っ先に思ったのは、気持ち悪いということ。あーきっと、この人はヨーロッパで第一次世界大戦を経験してる人なんだろうなという感じ。
ニュートラルにみようとすれば、絵画に時間を取り込もうとしている試みにもみえるし、構成主義的なものにも、印象派的なものにもみえるのだけど、ニュートラルにみたら意味なくなるんじゃないかな、というくらいドロドロとした感情にまみれたものだと思った。
そしてきっと彼は、この奇妙な形に折れ曲がり亡霊のような顔をした人を見たんだと思った。実際に。
第一次世界大戦中のヨーロッパ、死体が折り重なる風景。人間が身体を持つ個人であることを超えて、奇妙な形の物体となりうるということ。生々しく描かれた口元と消えた鼻。骨や肉が皮膚のすぐ内側にあるということ。溶ける肉と幾何学的に残る骨。
聖俗や貧富、性別を超えて、どんな人でもこうなり得るという残酷さを感じた。
その生々しい実感を非常に的確に表現しているのではないかと思う。そしてここまでのものにたどり着くまでにかなり試行錯誤があったんじゃないかと思う。
って、全然的外れかもしれないけど。
舞踏の土方さんのもつあの急遽の気持ち悪さも根本は非常に近いなと思っている。あんなもの、小難しい理論ではなくて身体に刻み込まれた記憶や経験からしか達成できない境地だと思う。直接的な経験ではなくてもいいのかもしれないけれど、肉迫したものがないと、あそこまでいけない。
さて、ちゃんとこれから勉強してみます。

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感性の哲学・桑子敏雄
日本辺境論・内田樹
最近偶然読んだこの二冊の本。適当に事務所の本棚から借りただけで全く脈絡はないのだけど、読んでみてはっとした。
大好きな先生とか、先輩方とか、友人とかと話を合わせようと必死で読んできたハイデガーなりメルロポンティなりバシュラールなり、どれも部分的にぐっときたりしてものの、どうしても最終的に腑に落ちなかった。でもわかんないっていうと置いてかれるのではないかと必死に納得顔をしてたけど、、、そういうことか!!私ってめっちゃくちゃ日本人なんだ!と。
例えば地下室とか屋根裏部屋とか、はっきりいって私、全く思い入れないし!や、なんかいいこといってるなーという憧れに近い気持ちは感じるんだけど。
実は海外の思想を理解できないのは翻訳のせいだと、ずっと思っていた私。たぶんそれもあるんだろうけど、海外の小説だと理解できるんだからな。
小説を読む時は日本の小説であっても海外のものでも、設定された都市や時代なんかに自分を連れて行って読むということを自然にやっているのだけど、思想的なこととなると生身の自分で受け止めようとするからうまくいかないんだ、と言うことに今更気付いた。
感性の哲学の方は、身体の配置と空間の履歴という言葉は喚起力があっていいなと思った(たぶんここから引用して塚本さんがよく使ってたから馴染みがある響きだったせいもある)。建築のことを考える時に、確かに使える言葉だとおもう。まさに身体の配置を定義し空間の履歴を更新するものが建築だと考えることもできるから。そう考えると一気に、ある敷地やある地域のなかにある使用者を想定した限定的ともいえる建築が、履歴という言葉によって時間軸的な広がりを手に入れ、身体という普遍的なものも取り扱えることになる。
もう一つ、やはり東洋思想について知りたいなーと思った。いつもなんとなく思っていたのだけど。特に八百万の神っていう考え方は日本人のメンタリティの根幹をなしてるよなっていうのが海外に少し住んだ時に実感したことなのだけど、感覚的な認識だけで知識が浅いままになってるな…
この本に出てくる引用は東洋のものが多くて、どれも結構すんなり理解できた。西洋思想を読む時の、文字的にはわかるけどどうも身体かできないあの幽体離脱したみたいな感じにはならず。
風景についての記述とかメインの感性についての部分の表現は好きになれなかったのだけど。
日本辺境論の方は、最後の日本語の構造についての部分は本当そうだよなーと思った。日本語の特徴や言語と思想の関係についてよく考えるのだけど、ほんとにちゃんと考えたら面白いことだよなと思う。漢字を見た目で感じるというのはほんとにそうだよなー。漢文読む時の、口に出して読めないけど全体を一望していいたいことはわかるあの感じって大好き。表意文字って身体と結びついている。大森荘蔵さんのことだま論やっぱり読みたいな。そしてこれも近々学びたいことだなー。
あと私には、私という一人称で口語体の文章は読みづらいということを再確認。なんかどうしても突っ込みをいれたくなってしまったり正面から受け止められないんだよなー。著者もそれを意識してあえて私+口語体を使っていたのだけど。
私の次知りたいことの尾っぽを見せてくれた本でした。

- 作者: 桑子敏雄
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いつどこで生まれたかということ
いつ、どこで生まれたのか、ということを聞けばだいたいのその人の背景がわかる。
それってすごく大雑把なようで、その通りだなと思う。
人それぞれ個々の細かい差はあるにせよ、ある政治的文化的背景による身体の類型をみいだすことはできるはずだ。個人的な話だけれど、私はそういった大枠の共通性を捉える目線というのを大学時代論文を通じて学び、ものごころついた!と思った記憶がある。
ある晩旦那がこんなことを言っていた。
自分の周りの日本人には中国に対してかなりアグレッシブな意見を持っている人が多い。大気汚染の話なんて、本当に中国は迷惑だ、最低だといっている。でもその話を70代の知人にしたら、それは日本も通ってきた道だから、きっと中国もこれからこの失敗に学んで発展していくんだと思う、という寛容な意見だった。と。
私からすると汚染水を海にうっかり流す方がよっぽどどうにかしてると思うのだけど、その話はおいといて。
考えてみれば私たちのような20代、30代の人たちにとってこの大気汚染の問題は初めて自分たちの領域が他者に傷つけられる経験であり、福島原発の汚染水を海に流していることなんかは逆に初めて自分たちのいる国が他国を、世界を傷つけている事態なんじゃないかと思う。
それに対して70代の戦時中、戦後を生きてきた彼にとっては、経験したこと、もしくは当事者ではないにしろそういった時代にいたことで、疑似経験したことであった。
10年ごとに区切って世代論をされることにいつも違和感を感じる私だけど、ある大きな出来事を経験したということはその人たちにある共通の影響を与えると思う。
もちろんそれは時間の問題だけではなくて、場所の問題でもあるし、もしかしたら時間や場所を超えて経験による共通性がみられるかもしれないけど(例えば戦争を経験した、とか)
そもそも身体ってなんなのか。
物質としての身体はこれ!ってわかりやすいけれど、この考えている私も含めて身体を語ろうとするときその定義って人それぞれになる。私はなんとなく、物理的な身体の周りにほわほわと四次元的に漂う雲みたいなものをイメージする。なぜ四次元かというと経験という、時間と空間を含んだものがまとわりついてくるから。でもあくまで、中心にくるのは物理的身体なのだと思う。私たちは私たちの体を通してしか経験できないから。
そのほわほわとした雲のような身体が、一刻一刻形を変えながら、(もしかしたら音も出てるかもしれない)動いている。
それを受け止めるのが家なんだと思う。
あれ、なんで結局家の話になったのか?大きなテーマをたてすぎてどうせ書ききれないと思ってたけど、案の定。まあ、そんなもんか。
そんな中途半端さもうけとめられる場所をつくりたいなとおもう。
身体/生命、ほぼ日、ダイアモンドさんインタビューをよんでかんがえたことでした。

- 作者: 市野川容孝
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おばちゃんが自転車のハンドルのとこにつけてる手をいれる袋みたいなやつ、いつもあれなんだろうと思いつつ、おばちゃんのアイコン的に捉えててイマイチ機能面について考えてなかったけど、あれすごいよくない?!中がモフモフになってんだね!いいなー。
もちろん手があったかいし、でも素手でハンドル握れるから滑ったりしくて安全だし。
もしや自転車ブームに乗っかって売れるのでは?!あのカバーレザーでつくったり小洒落たプリントしたりしてさー。
ビジネスはじめるべきか?ひともうけ?!
なんて考えてふと思う。
自転車ブームにのってる人たちってそもそも本気の自転車のってて寒さなんて気にしないぜ!的なトレンディヤングピーポーばっかじゃないか。彼ら素手だね。
なにはともあれ、あれ欲しい。
来年の冬には。
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アイドルグループしか音楽ヒットチャートで一位をとれない時代、日本のミュージシャンにとっては生きづらい環境なのかもな、なんて考える。
別にアイドルグループがダメだとかいいたいわけではなく、音楽だけで評価されないというのは生粋のミュージシャンには辛いだろうなと思うのだ。華やかなダンスとかグループ内の対決だとかアクロバティックなパフォーマンスとか、もちろん面白いし、今の時代を反映しているのだけど。音楽って見るものだったか?
メルボルンのヒットチャートの一つhottest100は毎年楽しみに聞いている。メルボルンの人たちって、自分たちでいい音楽を発掘したいという気持ちが強いのか、アメリカのヒットチャートとも違う時にインディペンデントな面白いアーティストが名を連ねる。
先日行われた町中が一晩中ライブハウス化するというイベントも面白かった。街角のライブハウスで、仮設ステージで、駅の階段踊り場で、路地の溜まりで、有名無名のアーティストが夕方から夜が開けるまでライブパフォーマンスを行った。
私は日本以外にはメルボルンにしか住んだことがないので他の都市のことはわからないけど、メルボルンの人たちは確実に音楽を、聴いて、いると思う。見て、いない。
ライブを安くで気軽に見れる環境があるというのがそのリテラシを育む環境として大きく影響していると思うし、ほとんどの人が車に乗って移動しているというのも大きいと思う。
車を運転する時には音楽を聴き、電車で移動する時は本を読むというのがいい組み合わせなんじゃないかと思っていて、まあそのことについてはまたまとめて書きたいことがたくさんあるのだけど。
音楽というのはすごくパワフルなものだ、と思う。一気に空間の色あいをかえてしまう。そして、ときに何よりもシャープにその時代の空気を切り取る。言葉とメロディで。聴くということ、聴き考えるということ、聴き感じるということ。その能力を退化させてしまうのはもったいない。ライブもいいけど、目をつぶって音楽を聴く時間もとろうかな、と思う。