わたしはなぜ?

「なんで建築を?!何が楽しい?」と、最近おじちゃんおばちゃんによく聞かれる。
私は毎回毎回、真面目に答えているのだけど、良い機会なので考えてみることにした。


以前東工大の一年生向けに研究紹介をしたときは、パワポで世界のいろんな町の風景をみせながら、
「建物というのはその地域やその時代、その文化、それをつくった人たちの慣習などに必ず影響されます。そういった建物が集まった町というのは一体となって強くその場所を反映した風景をつくり出します。建築のデザインを研究するということは、そういった地域や時代、文化がどのようにデザインとして定着されるかを研究することです。さらにそこからデザインの可能性を見出そうとしています。」
で、論文については。
「私たちの最も身近な空間である住宅のインテリアのデザインのなかに、いろんな建築家の個人的な表現を超えた共通性をみつけることで、現代の日本という場所、その地域性や文化慣習のうみだすデザインを見出すことです。さらにありうるタイプを検討することから、デザインの可能性を広げようとしています。」
で、
「建築というのはその地域や時代、文化を反映します。私は自分のいる場所である「現代の日本」の住宅を研究の対象とし、実際に設計することで「今ここにいるわたしたち」のための空間をみつけたいと思っています。」
という感じ。理工系の学生ならきっと「建築の意匠を学問する意義」を聞きたいだろうと思ったので、自分の中で建築を学問としてやっている理由を考えてみた気がする。



最近の私は「認識」というのに興味がある。「真実の世界」とか「本当のわたし」というのは実感できなくて、ただ「世界は私の認識の中にある」と思う。だから、何をやろうとそれは私の認識を変え、世界を変える。
認識には「言葉にすることによるもの」と「体が動作を伴うことによるもの」があると思う。
言葉については何度かかいたし、論文とかその分かりやすい例だと思う。体のほうを最近すごく実感している。日常的な動作の変化というのは私の世界に対する認識を大きく変えるものだった。今まであまり意識していなかった。
建築というのは、日常のヒトの動作や身体的な感覚に直接的に関わるものだと思う。だから私にとってはすごく面白い。言葉ー認識の関係はどんな学問にも見られるのだけれど、日常的な動作にこんなにも関わることのできるのは建築くらいなんじゃないか。


そんなことを思う。
おじちゃんおばちゃんにももっと分かりやすく具体的に言えるようにしとかないとな。
毎日まるで大喜利です。