半・普遍的な身体について

病院からの帰り道、なぜか研修医につかまり、今後の身の振り方について小一時間相談を受ける。自分のことは棚に上げてあーだこうだ言い、家に帰るとka032が届いていた。
今回から学生が編集を担当したka。編集委員のくせに最後を見届けられなかったので、出来上がりがとどいてテンションが上がり、ビール片手に読。


で、久しぶりにkaの編集委員のみんなで話していたことを思い出す。
いつも話は「で、建築って何なんだ?」という大壇上に向かってしまって、それがまた楽しかった。(まとめるのはさぞ大変だったと思う。)
私は繰り返される議論の中で、いくつか自分に向けての問題を見つけたきがする。


そのひとつが「半・普遍的な身体像と建築」。
前提として、私は身体と乖離した、形式の面白さを求めることを目標とした建築はものたりない、と思っている。
そこで「コルビュジェの高貴なる野蛮人だとか伊東さんの遊牧少女」っていうのの可能性。
ひとつの身体像をもった建築というのは力強いと思う。その身体像っていうのは例えば「住まい手」というきわめて具体的なものだと建築自体が個別解になってしまう気がする。だからといって「日本人」ってほど抽象的だと形式的すぎる。
「抽象化されていながら具体的な振る舞いを想起させる身体」=「半・普遍的な身体」が建物の全体性を担保する、ということに可能性を感じるのだ。そういう意味で、コルビュジェや伊東さんはうまいと思う。彼らの言う身体像がその時代、その場所と結びついた時にみせる空間の魅力は、やはりその身体を見出したことによるのだと思う。


もうひとつは「建築と愛着」。
これはまだ整理されていないのだけれど・・・。
先日も書いたように建築は建築の世界で閉じる輪の中にあるテーマを抱えつつ、建築の世界の外にももちろんひろがっている。
建築の世界を拡張した時に建築にくっついてくる魅力、例えば多木さんの「生きられた家」やバシュラールの「空間の詩学」に記述されているような建築の魅力がある。それは、時間の経過や人の営みとのかかわりから生まれるもので、そこには「愛着」という力が作用している気がする。トポフィリだ。
「建築」は「愛着」を生むものでありうる。「愛着」は「建築」を生むものでありうる。
という「建築」⇄「愛着」の関係。
それを具現化するときにスケールが要になってくるのだと、私は思う。


こう書いてみるとなんだか私はすごくヒューマニストなかんじ?!まあ、そうかもしれない。新ヒューマニズム宣言だ。


その一方で建築を統合する図式はすごく強くていいと思っている。というか強くなければ、と。
身体や愛着が作用しても、埋もれてしまわないような強度をもたせないといけないと思っている。
その「強度」ってのがどういうものなのか、分からないのだけど。

悩・・・