建築のこと
久しぶりに基本設計をしていると、いろんなことを発見する。
きっとずーっと設計しているひとからすれば、そんなこと当たり前じゃないか!ということ。子どもを産んだりしてる間に私がうっかり忘れていたこと。
例えば、わーっと思うような、ワクワクするような場所をつくりたいとおもうこと。
コルビュジェでもミースでもロースでもライトでも、今改めて図面やら写真をみるとそういう思いをもってやっていたことが伝わってくる。きれーい!でもいいし、え!っと驚くのでもいい。なにか人の感情に触れるような形をつくっているのが偉大な建築家たちだった。そういうものって長持ちするのだ。

ほかには、例えばプランをつくるモードのこと。こうきたらこう!というあ・うんの呼吸というか…文章で伝えにくいけど、そういう作法のようなものがあるということ。室が隣接して行く中にいきなり入れ子の水回りがでてくると、アレ?っとなるみたいな。で、そういうモードを守ってもいいし、意識的にであれば崩しても良い。ただ、適当にやるとまとまらない。ということ。

あとは、敷地によって気候風土もお隣さんの様子も違うし、どれくらい規範がある街かも違う。実は日常生活の営み方もちがう。もちろんお施主さんの個性も違う。
そういうプロジェクトが最初からもっているキャラクターみたいものに、設計もやっぱり引っ張られるし、それでいいのだ、ということ。いきなり普遍的なものを目指すことは、少なくとも私にはできない。この人がこの窓辺で大好きなボサノバききながら、最近はまってる黒豆茶を飲んで…みたいな、どうしようもなく個人的な思いを片手にもっていないと、なんだかカサカサのものばかりできてしまう。

そして、建築と愛着という昔から気になっているテーマを最近またよく考える。
空間のキャラクターを言葉で言えることというのはひとつ大事な気がしている。なんでもいいのだけど、例えば、
うちにはすごく大きいソファみたいな出窓があるんだよ!
でもいいし、
毎朝階段を一番上まで上ってトップライトを開けると風がさーっと通り抜けるんだ!
でもいい。
キッチンがひろくてあかるいんだー
でもいい。
そういう気持ちをもって、人に伝えられることって、そして誰か連れてきて共有したいと思うことって大切だなと思う。

ときに形式とよばれるものがそういうキャラクターを産み出すことがあるし、素材とかスケールが産み出すこともある。いろんなものが絡み合ってできることもある。

これって一種のヒューマニズムかしら?
そんなことを考えてる。