メルボルンにいって思うのは、インディペンデントなお店が多いなということ。
スターバックスはできてもすぐ潰れるという。なぜかというとみんな個人営業のカフェを応援したいと思っているから。
そして個人営業のカフェのクオリティがとても高い。インテリアにしろフードやドリンクの質にしろ、ロゴやウェブサイト、メニューやショップカード、どれもちゃんとしている。トレンディなのだ。

そしてお店には若者だけじゃなくてお年寄りがたくさんいて、子どもがたくさんいる。

日本のお年寄りはなぜカフェやギャラリーにいかないのか?なぜ喫茶店と美術館なのか。
子供達はなぜファミレスと遊園地にいかなければいけないのか。

ジェネレーションとスタイルの一対一対応がはっきりしていることにはもちろん良い面もあると思うのだけど、なんとなく違和感を感じてしまう。
こういうのは老人や子供には分からないんだよ、という無言の圧力を感じる。はっきりいって若者より現代アートにくわしいおじいちゃんはたくさんいる。ファッションに人過言あるおばあちゃんはたくさんいる。

うちの70代のオジオバなんて、気になるギャラリーのオープニングには必ず行くし、いつ若手のアーティストをチェックしているし、義兄のライブにもくるし、小洒落たカフェができれば訪れる。それってあまり変なことではない。少なくともメルボルンでは。

この前下北沢の小洒落たカフェに家族で行った。子供が生まれる前に夫婦でよくいったカフェ。子供をオーナー夫婦に紹介できるな、なんて思ってお店に入ったら、子供はお断りしてます、と。
うるさい子や走り回る子もいるもんな、まあしょうがないか。と思いつつもやりきれない気持ちで持ち帰りのラテを外で飲んだ。

カフェで子供がさわいだら嫌なんだろうか?(というか、もし本当にさわいだらもちろん誰でも外に出ると思うが。)
例えば本当に電車の中で電話で話している人がいたら迷惑なんだろうか?大声で会話している人たちはオッケーで静かに電話してる人は白い目で見られるってのは何か変じゃないのか?つまりそれってうるさいとかいう問題ではないのでは?

世代論というのは面白いし、納得できることも多い。けど、今この時代この場所に同時に存在するということのほうが、何十歳かの違いより大きい気がするのは私だけだろうか?
差異ではなくて共通性。

このスタイルのスペースには小洒落た若者のみに来て欲しい。子供やお年寄りは想定していない。なぜなら若者のスタイルで作ったから。という無意識に当たり前に想定されている前提があるんじゃないか。そういう態度が、渋谷とか秋葉原とか巣鴨とか言えば大体街にいる人の雰囲気まで想像できてしまうという、東京ならではの面白い光景を作っていることはまちがいないのだけど、その態度を無意識に先鋭化させていっていいものだろうか?

ひとまず、おじいちゃんもおじいちゃんも赤ちゃんも私も、いまここを共有しているということを、丁寧に考え直してみることが必要な気がする

レミゼラブル
メルボルンでみてきた。義母がプレゼントしてくれたゴールドクラスのチケットで。リクライニングシートにワインとチップス、部屋の中には私と旦那二人っきりという、なんとも贅沢なセッティング。

久しぶりに映画館で映画をみたからか、大音量と大迫力の映像に圧倒され、やばい、最後まで見れないかも、と不安になった。

ミュージカル一家に嫁入りして初めてミュージカルに親しむようになって、歌いながら語るという不自然なパフォーマンスが時として現実よりわかりやすくリアルにものごとを伝えられるということに気付いた。うまくできたミュージカルでは、登場人物の感情表現とか背景なんかを説明抜きにメロディによって表現できている。舞台という限られた場所で、かつライブで行うという表現方法の中ではとても上手いやり方だと思っていた。
それに比べて映画は映像を重ねることができるし、時間を行ったり来たりできる。いろんな場所を行き来できる。
さて、映画でミュージカルというのはどんなものか、と手探りでみはじめる。

結果感じたことのひとつは、歌の力。歌というのはこちらが何の準備もなく無防備でもお構いなく響いてくる。例えば英語がフォローできない部分でおいてかれても、メロディが引っ張ってくれる。そんな印象を受けた。

そして映画だから、やはり舞台よりたくさんのことを映像で表現できる。たくさんのこと、というより現実に近いことをというべきか。舞台だってよくできた舞台装置は本当にたくさんのことを表現し、観客のイマジネーションを喚起してくれるから。

もちろん、映画自体もすごく良くできていたなと思う。よく見る俳優さんが歌っていることにはじめぎこちなさを感じたものの…
わたしは結構入り込んでしまって、見終わったあとメルボルンの街にでた時に眩暈をおこした。
なんて平和な時代に平和な街にいるんだろう。小さい頃に思い描いたような幸せに近いところに、もしかしたらもっと楽しいところにいることができてるんだろう。
夢をみても血を流さなくていい時代。良くも悪くも、自分の立場をそこまで深刻に表明しなくていい時代。

i was never cool in school
天使の歌声とピアニストの指先と、ロックスターの心を持ってるひと。
ベンフォールズファイブを最初に聞いた時、がーんときた。綺麗だけどガチャガチャで、美しいハーモニーの後ろに不協和音があって、過激な歌詞だけどユーモアがあって。
そして映像を見て、ひょろひょろの体でエネルギー有り余ってて、なんかに怒ってて、ピアノに向かってうたってるんじゃないかこの人は?と思った。ベンフォールズファイブ。
わたしは決してアングリーな学生時代を過ごしていなくて、どちらかというとのほほんと楽しく毎日を過ごしていたけど、彼らの音楽には何か共鳴するものがあるんだと思う。
何か人生の中で変化とかハプニングがあるごとに繰り返し繰り返し彼らの曲を聞いている気がする。

私の大好きな日本人バンドといえばサニーデイサービスだけど、彼らにもなんか通じるものがあるなと、思う。率直でユニークな歌詞とかどうしようもなく美しい声とかドンドコドラムとか。そして何よりポジティブな怒り。フィッシュマンズみたいなネガティヴさはなく(フィッシュマンズ大好きだけど)とにかく目の前にあるものを壊してでも進んでくパワー。

ちなみに、ベンフォールズソロの時はもっと幸せな感じ。曽我部さんもソロになるとそうだね。

ビニール袋とかああいうのがとにかく嫌なのです。
いつから嫌になったのか、そういう年頃なのか。例えば旦那がスーパーで買い物してきてビニル袋ごとおきっぱなしにしてるのとか、お弁当買ってきて食べる時に目の端にうつる箸が入ってた袋とか、鼻をかんだあとのティッシュとか、ああいうの。形がどうというより多分あのふにゃふにゃで、なんの横においてもおさまりが悪く、変なところがびりりと破れてたりする、あの感じが嫌で、見つけるや否やゴミ箱か別の納まりが良い袋(カゴとか小さめの紙袋とかね)の中かどこかにしまいます。
ストローやおしぼりの袋はくるりとリボンかなんかにして可愛くコップに添えます。
そういうのって別に気にならない人からすると意味不明なんだろうな。きっと職業柄、納まりの悪いものは悪いなりにどうにかなってなきゃヤダ!てことになってるんだろう。色別とか素材別に分類しておいた途端気にならなくなったりするもんな。

こういうのって人それぞれで、うちの旦那さんなんて洗濯の仕方にすごいうるさい。結婚当初は色別に洗濯仕分けてたし(最近は子供もできて流石に諦めた)、シーツたたんだまま洗ってたり、靴下裏返しで洗ってたり、さらには靴下がズボンの中に入った状態で洗ってたりしたら不機嫌になる。私はそんなん気にせずぽんぽんぎゅうぎゅう押し込んでピッとスタートボタン押す派。

こういうのって面白いなと思う。自分の生まれ育った環境によって、あたりまえなことって本当に違う。カルチャーショック受けるほど大きな違いではないから、当たり前の微地形みたいなものが私たちの新しい家庭にはできていて、あっちを引っ込めたり出っ張らせたりしながら、私たちの家族の地形をつくっていくのかな。

アートと音楽
偶然の奏でる音楽
プールの中にたくさんの陶器のボウルが浮かんでいる。大きさもまちまち。水の流れにのってプールのなかをぐるぐるまわるボウル。
時に他のボウルとぶつかって音をたてる。速いスピードでぶつかると大きい音、ゆっくりぶつかると小さい音。大きいボウルどうしだと低い音、小さいボウルだと高い音。
たくさんのボウルが同時にプールのなかをぐるぐるまわり、いろんな音がいろんなリズムで鳴り響く。
いつ聞いても似たような音楽なのだけど、たぶん、二度と同じ音楽は流れないんだろう。なんとなく日時のようだな、と思う。毎日同じようなリズムを同じようなビートで繰り返しているけれど、実は二度と同じことはできない。そして毎日とても計画的に動いている日でさえも、起こっている出来事は偶然でその場限りのものなんだな、と。
ずーっとみていても飽きない、すてきな作品だった。こういうのをみれてよかったなーと素直に思った。

もう一つ面白かったのは、氷でつくったレコード。レコードがどんどん溶けていくから、レコードの奏でる音楽もどんどん溶けていく。歌声だったものやメロディだったものが、どんどん聞き覚えのある雑音のようなものになっていく。

音楽というのは時間とどうにも切り離せないものだな、と気付いた。当たり前のことだけど、改めて。
絵のようにずーっと飾っておけない。建築のように、そこにあり続けられない。
音楽を奏でる者/物が、音楽を奏でている間しかそこに存在しない。

アートと音楽 ──新たな共感覚をもとめて

アートと音楽 ──新たな共感覚をもとめて

建築のこと
久しぶりに基本設計をしていると、いろんなことを発見する。
きっとずーっと設計しているひとからすれば、そんなこと当たり前じゃないか!ということ。子どもを産んだりしてる間に私がうっかり忘れていたこと。
例えば、わーっと思うような、ワクワクするような場所をつくりたいとおもうこと。
コルビュジェでもミースでもロースでもライトでも、今改めて図面やら写真をみるとそういう思いをもってやっていたことが伝わってくる。きれーい!でもいいし、え!っと驚くのでもいい。なにか人の感情に触れるような形をつくっているのが偉大な建築家たちだった。そういうものって長持ちするのだ。

ほかには、例えばプランをつくるモードのこと。こうきたらこう!というあ・うんの呼吸というか…文章で伝えにくいけど、そういう作法のようなものがあるということ。室が隣接して行く中にいきなり入れ子の水回りがでてくると、アレ?っとなるみたいな。で、そういうモードを守ってもいいし、意識的にであれば崩しても良い。ただ、適当にやるとまとまらない。ということ。

あとは、敷地によって気候風土もお隣さんの様子も違うし、どれくらい規範がある街かも違う。実は日常生活の営み方もちがう。もちろんお施主さんの個性も違う。
そういうプロジェクトが最初からもっているキャラクターみたいものに、設計もやっぱり引っ張られるし、それでいいのだ、ということ。いきなり普遍的なものを目指すことは、少なくとも私にはできない。この人がこの窓辺で大好きなボサノバききながら、最近はまってる黒豆茶を飲んで…みたいな、どうしようもなく個人的な思いを片手にもっていないと、なんだかカサカサのものばかりできてしまう。

そして、建築と愛着という昔から気になっているテーマを最近またよく考える。
空間のキャラクターを言葉で言えることというのはひとつ大事な気がしている。なんでもいいのだけど、例えば、
うちにはすごく大きいソファみたいな出窓があるんだよ!
でもいいし、
毎朝階段を一番上まで上ってトップライトを開けると風がさーっと通り抜けるんだ!
でもいい。
キッチンがひろくてあかるいんだー
でもいい。
そういう気持ちをもって、人に伝えられることって、そして誰か連れてきて共有したいと思うことって大切だなと思う。

ときに形式とよばれるものがそういうキャラクターを産み出すことがあるし、素材とかスケールが産み出すこともある。いろんなものが絡み合ってできることもある。

これって一種のヒューマニズムかしら?
そんなことを考えてる。

天才でごめんなさい
会田誠

一つ一つの作品に背景や意味がきちんとあり、むしろそういったコンセプトによって表現方法は変わって良い、何をしても良いという彼のスタイルはとても力強く、何だかわかんないけど拍手したくなってしまう。
この人はアートの根源的な喜びだと思われる、驚きとか感情を動かす力、もしくは社会を動かす力みたいなものを、信じているのだなあ。そして作品から己のプレゼンスに至るまで徹底的にアイデアを実現するのだなあ。それはある時代の象徴のような態度だと思う。

まるで(コンテンポラリー)アートとよばれる出来事やアーティストとよばれる人たちを意味不明の淵から1人で救おうとしているみたいだ。この人のまじめさは何なんだ、そこまで一人で背負ってどうするんだ、と思ってしまった。

拍手。

会田誠作品集  天才でごめんなさい

会田誠作品集 天才でごめんなさい